敦煌(とんこう)は中華人民共和国の甘粛省にある都市。古くから西域への玄関口として、シルクロード交易の要衝として栄えたオアシス都市です。
知る
[編集]| 「 | 渭城ノ朝雨、浥シ㆓輕塵ヲ㆒ 客舍青青、柳色新ナリ |
」 |
| —『送元二使安西』王維 | ||
河西走廊の西端にあり、陸のシルクロードにおいて非常に重要な役割を果たした都市です。広大な砂の土地に築かれた都市であり、周囲には砂漠が延々と続きます。前漢の武帝が対匈奴の最前線として構築して以来、東西の交易路の重要な中継地点と西の異界への入り口として在り続けてきました。こうした歴史的重要性から、敦煌文書が見つかったり巨大な莫高窟があったりと文化的に非常に面白い町になっています。また、遊牧民族の土地である西域を感じるにもいい場所です。
歴史
[編集]敦煌は太古より月氏の土地でしたが、匈奴の最盛期である冒頓単于の時代に侵攻され、匈奴が支配下に置いていました。その後前漢の武帝による西域出征によって漢の支配下に入り、河西四郡の1つとして敦煌郡が置かれた話は有名です。その後、西域への防御策として玉門関と陽関が置かれ、以降もこれらはシルクロードの重要な関所として機能していきます。張騫が獲得した有名な汗血馬もまたこの地を通って運ばれました。その後唐の時代まで、この地はシルクロードの中心地として栄えていましたが、中原からすれば辺境の地であり、東から追いやられてきた貧民や犯罪者などが多かったと言います。
政情が不安定になった晩唐に吐蕃によって占領されると交易がとまり、その後支配勢力は二転三転し一時は交易が再開されるなどしましたが、シルクロードの海行路への変遷とともに寂れ、近代になるまで町は忘れ去られていきました。1900年、王円籙が偶然敦煌文書の一部を見つけると、そのうわさを聞き付けた西洋の学者たちが訪れ資料を自国へ持ち帰るなどしたため、清朝がこれらの資料を保護しました。敦煌文書には多種多様な言語で書かれた多種多様な宗教の経典が含まれており、その文化的価値が評価され再び敦煌に人の目が向くようになりました。現在は世界文化遺産に登録された場所の1つとして、人気の観光地となっています。
地理
[編集]西にタリム盆地、北にゴビ砂漠が控える中国の辺境の地で、河西回廊と呼ばれるシルクロードの重要中継地に当たります。この地に築かれた関所の1つである玉門関は万里の長城の終点でもあり、また現在では世界遺産「シルクロード:長安−天山回廊の交易路網」にも含まれています。
観賞
[編集]この地は最西域の地として漢詩の中にもしばしば登場します。冒頭でもご紹介した王維の詩『送元二使安西』はその1つで、西域へ向かう旧友への別れの詩なのですが、最も有名な最後の句に出てくる「陽關」こそ敦煌の関所の1つ陽関を指しています。
また、涼州詞の代表的な作である王之渙の『涼州詞』にも、「春光不㆑度ラ玉門關」と敦煌の玉門関に言及があります。
着く
[編集]飛行機で
[編集]鉄道で
[編集]- 敦煌駅 - 市内に最も近いですが、停車する列車は少ないです。
- 柳園駅 - 市内から120 km (75 mi)離れています。
- 柳園南駅 - 柳園駅と同様市内から120 km (75 mi)離れており、高速列車が停車します。
観る
[編集]- 鳴沙山と月牙泉
- 莫高窟 - 世界文化遺産に登録されている、大規模な石窟です。見学する場合は莫高窟数字展示中心にて入場券を購入する必要があります。
- 月牙泉 - 月牙とは中国語で三日月のことです。砂漠のなかにありますが、一度も枯れたことがありません。
- 沙州故城
以上は市内からバスで行くことができます。以下は市内から車をチャーターする必要かあります。
- 白馬塔 - 白亜の仏塔。4世紀に、ある高僧が連れてきた白馬が死んだため、埋葬のためにこの塔を建てたといいます。
- 楡林窟 - 万仏峡ともいう。唐代から清代まで開削され現存は41カ所です。
- 鎖陽城 - 唐代の城で、この城で戦いが起きて食料が尽きた時漢方の材料である鎖陽を食べてもちこたえたのてこの名がつきました。
- 玉門関 - 漢代では中国最西端の地でした。
- 陽関 - 王維の詩でも詠われた、重要な関所でした。
- 西千仏洞 - 莫高窟の西にあるため、西千仏洞といいます。
- ヤルダン地質公園 - 広大な砂漠の中に奇怪な岩の多数が並びます。張芸謀監督映画「HERO」のロケ地でした。
食べる
[編集]- 沙州市場 - 甘粛省料理が食べられます。
泊まる
[編集]有名観光地というだけあり、高級ホテルからYHAまで揃っています。
- 敦煌太陽大酒店は日本のグループツアーがよく使うホテルであります。
- 敦煌賓館は国内外の要人が宿泊します。
- 敦煌非你莫宿青年旅舎は敦煌のYHA。
出かける
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