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提供:ウィキボヤージュ
中央アナトリア

中央アナトリア地方トルコ語İç Anadolu)はトルコの地方で、中央高原に広がっており、そのほとんどがステップです。


都市

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  • 1 アンカラ    — トルコ第二の都市であり、この地方のみならずトルコの首都です
  • 2 アフィヨンカラヒサール    (別名:アフィヨン) — 丘の上に城塞のある伝統的な町
  • 3 ディヴリーイ    — 優雅なセルジューク様式の大モスクがある場所で、世界遺産に登録されています
  • 4 エスキシェヒル    — 橋や彫刻が見所の、かなり保守的な川沿いの学園都市です
  • 5 カイセリ    — エルジェス山に近い大都市で、ウィンタースポーツのリゾートです
  • 6 コンヤ    — ルーミーの霊廟があり、セルジューク朝時代の美しい遺跡が多数現存します
  • 7 キュタヒヤ    — オスマン時代の伝統的なタイルと陶器で有名で、アイゾナイのゼウス神殿へ向かう拠点となります
  • 8 ネヴシェヒル    カッパドキアの首都
  • 9 スィヴァス    — セルジューク朝のマドラサの複合建築に加え、ムスタファ・ケマルがトルコ独立戦争を計画したスィヴァス会議の地として知られています


知る

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ギョレメ国立公園の土柱

象徴的なステップ気候の景観やカッパドキアの月面のような風景を除けば、中央アナトリアは多様な文明が刻んできたたくさんの歴史の宝庫です。

アンカラ、カッパドキア、そして特に大学都市エスキシェヒルでは、若者や観光客の先導する自由主義が見られます。

歴史

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コンヤの東、草原地帯に紀元前7500年から紀元前5700年に存在したチャタル・ヒュユク遺跡世界遺産)は、現在のトルコ領で発見された最初の集落で、実際定住生活を営む世界最古の場所のひとつであった。

中央アナトリアで勢力を伸ばした最初の主要国家は、インド・ヨーロッパ祖語を話すヒッタイト王国で、時代で言えばファラオ時代のエジプトと同じころでした(そしてしばしば戦争をしていた)。ヒッタイト人は中央アナトリアの大部分に加え、南下してシリアの近隣地域の大部分を占領していました。

紀元前10世紀後半、フリギア人が北西部、おそらくバルカン半島南東部のトラキアから到着し、この地域の西部に定住しました。フリギア人は、母なる女神キュベレーのために神聖な山の中腹に野外神殿を彫り、現代の観光者をも魅了しています。

その後西からリディア人、東からペルシア人に侵略されたこの地域は、最終的にアレクサンドロス大王の軍によって統一されました。アレクサンドロス大王は、フィルギア人の首都ゴルディオンで“ゴルディアスの結び目„を切りました。これは「難題を一刀両断に解くが如く」( : to cut the Gordian Knot)という英語の諺で使われており、この遺跡もアンカラの南西約80 km (50 mi)の地点で今でも見ることができます。

その後、紀元前278年にケルト人が現れ、一時にはイギリス諸島から中央アナトリアまでのヨーロッパ全土を占領し、中北部にガラティアを建国しました。彼らはローマ軍に敗れたものの、ローマはその名を残し、この地域をガラティア州として統治しました。

中央アナトリア、そして特にカッパドキアは、迫害を避けて地下都市や隠れ教会を築いた、抑圧された初期のキリスト教徒たちの隠れ家のひとつでした。ビザンツ帝国は、カッパドキアの景観の宗教化という伝統を守り、自然が作り出した「妖精の煙突」(土柱)を削り取り、華麗に彩られた教会を建てました。

東アナトリアで起こった1071年のマラズギルトの戦いの後、チュルク系の諸部族が中央アナトリアに現れ始めました。この地域はトルコでチュルク系諸部族の定住の歴史が最も長く、その理由はおそらく地理的に彼らの祖国である中央アジアと似ているためなのでしょう。各部族は、その後この地域を中心地としたスルタン(セルジューク朝)に統合されました。

セルジューク朝が滅亡した後、この地方はいくつかの小さな首長国に分解し、そして外からやってきたオスマン帝国が他の首長国を次々と支配していきました。オスマン帝国がマルマラ地方とバルカン半島を中心として支配していた時代には、この地域は僻地とみなされ、それ故オスマン帝国の大規模な建造物がこの地域には存在しないのです。


気候

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気候は半乾燥気候か大陸性気候で、暑く乾燥している夏(日中は28~32℃前後、月に1~4日降水)と温暖な過渡期、寒冷で降雪の多い冬(日中は0℃前後、月に10~15日降水)で構成されています。寒い地域では、冬の大半に雪が積もっていることもあります。また、春には嵐が訪れます。

着く

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アンカラ北部の草原を通る寂れた田舎道

移動する

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エスキシェヒル、アンカラ、コンヤ、カイセリ、スィヴァスは、この地域のバスの主要拠点となっています。エスキシェヒル、アンカラ、コンヤ、カラマン、スィヴァスの各都市間では、トルコの高速鉄道が頻繁に運行されています。

観る

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  • セルジューク朝のモニュメントは、コンヤ、カイセリ、スィヴァスなどいくつかの都市で発見できます。荘厳な門と緻密で精巧な石組みが特徴的です。
  • トゥズ湖は塩湖で、アンカラ、コンヤ、アクサライに挟まれた中央アナトリアの中心にあります。ヴァン湖に次いでトルコで2番目に大きな湖ですが、深さはせいぜい2 m (6.6 ft)程度です。
  • コンヤ100 km (62 mi)ほど東にあるカラプナル砂漠は砂丘が広がっており、植林がかろうじてカラプナルの町を飲み込まないよう拡大を抑えています。
  • 三笠宮記念庭園Çağırkan カマンの8 km (5.0 mi)東。 伝統的な要素をすべて取り入れた丘陵地の日本庭園。荒れた露頭地形に変身した庭園の周囲では、落ち着いたヨーロッパアカマツの木立が、眼下に広がる原っぱや乾燥した草原と素晴らしいコントラストを成しています。そのありそうでないような立地は、日本の考古学者が隣のカマン・カレホユックで発掘調査を行った際に三笠宮崇仁殿下が来訪したことを記念して生まれました。発掘調査の際の出土品は隣の博物館に展示されています。パンフレット 追加情報:日本料理。 営業時間:毎日;08:00-19:00。 値段:無料;博物館は50 TL。

する

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  • ハイキング — 長距離ハイキングをこの地方でするなら:
    • ヤズルカヤへと通ずる3本の道を擁するフリギアの道
    • ヒッタイトの中心地にあたるハットゥシャ(ボアズキョイ)周辺地域を歩くヒッタイトの道
    • イスタンブールからコンヤまで伸びるイスラム神秘主義がテーマのハイキング・サイクリングのコースであるスーフィの道
    • 他にも、風光明媚な渓谷に沿っていくつか非公式な登山道があるカッパドキアや、高所トレイルやロッククライミングのルートがあるニーデの東のアラダーラル国立公園も選択肢の1つです。

食べる

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郷土料理のほとんどは、乾燥した草原地帯の2大産物である小麦と羊肉に依存しています。しかしカッパドキアは、肥沃な土壌と1920年代の入植者であるマケドニア系移民のおかげで、野菜を中心とした郷土料理もあります。

飲む

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この地域の主なワイン産地は、アンカラの東のクズルウルマク渓谷(特に、受賞歴を持つカワクルデレ・ワイナリーが拠点を置くカレシクとアキュルトの町)とカッパドキアです。

安全を確保する

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出かける

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