広義の東亜の一大大国中国は、20世紀以上に亘って中国の平野部を中心とした広大な地域に大国として存在し続けてきました。中国の帝国・王朝を指す言葉はいくつも存在しますが、ここでは特に現存が確認されている古代王朝(殷、周)や中華帝国—嬴政の秦にはじまり、大砲と西欧の靴音が鳴る清末期にかけての中国統一王朝について解説します。この長大な歴史の中で、国内では様々な思想や文化が盛衰し、今日まで積み上げられてきました。また、周辺の国家との間には朝貢体制が築かれ、中華文化圏を形成しています。中国の帝国史を学ぶことは東アジア地域をより楽しむために絶対に必要なことです。
知る
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中国の歴代国家を表す言葉は複数存在します:
古代
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王朝ではありませんが、はじめに古代中国をみてみましょう。中国では、混沌とした世界に生まれた盤古が天地を分かち、その死体の各部位がそれぞれ山や日月、海や川などになったとする天地開闢が創世神話として有名です。この神話は、中国の歴史書として知らぬものはいない『史記』にも掲載されておらず、初出は三国時代頃にまで下ります。最古代中国についての伝説は天地開闢以外にも豊富にあり、伝説上の生物や支配者がたくさん登場します。分厚い漢字辞典を眺めているとところどころに見つかる「伝説上の生物の名」と解説されている漢字の多くもまたこの伝説の産物です。こうした伝説は後に登場する道教などに取り入れられていきます。
一方で考古学上の中国は、世界四大文明の1つに数えられるほどの非常に古い文明であり、大きく黄河文明と長江文明の2つに分けられます。黄河文明の中でも最古のものは河南省で見つかった裴李崗文化で、紀元前7000~5000年の間に存在しました。黄河文明の中でも特に有名なのは、陝西省から河南省にかけての一帯にあった仰韶文化と山東省の龍山文化でしょう。仰韶文化は彩陶を作ることで著名で、河南省三門峡市にある、仰韶の命名元にもなった遺跡に建てられた仰韶文化博物館には彩陶が専門的に展示されている他、甘粛省蘭州市の甘粛省博物館でも彩陶の歴史がよくわかります。龍山文化は逆に黒陶が有名で黒陶文化とも呼ばれます。山東省済南市の城子崖遺跡は龍山文化の遺跡の1つで、現在は遺跡公園として整備され城子崖遺址博物館が建っています。また、山東博物館にも龍山文化の遺物が収蔵されており、蛋殻黒陶という非常に薄い黒陶も見られます。黄河文明はこの後社会の階層化が進み長い長い中国王朝の歴史へと移っていきます。

他方、長江文明の中でも有名なのは良渚文化や河姆渡文化です。前者は浙江省杭州市で良渚遺跡という非常に大規模な遺跡が発見されており、「良渚古城遺跡」という名称で世界遺産に登録されています。河姆渡文化は世界最古の稲栽培で知られ、家畜も飼っていたことがわかっています。浙江省余姚市には河姆渡遺跡があって河姆渡遺址博物館という博物館が建てられており、「遺跡の概要」「稲作経済」「人々の生活」などに分けて展示がなされています。長江文明では他に四川省徳陽市の三星堆遺跡も独特な人頭像で知られています。
さて、中国史を語るうえで欠かせないのは『史記』です。これは前漢の時代に作られた本で(詳細は後述)、紀伝体で膨大な歴史を記述しています。その『史記』によれば、伝説の三皇五帝の時代の後黄河流域に初めての王朝として夏が生まれたとされています。しかしその信憑性は低くこの王朝は存在しないと考える研究者も数多くいます。存在が確定しているのは次の王朝、殷(商、紀元前16~11世紀)からです。河南省安陽市にあるその都・殷墟は殷朝後期の紀元前14世紀ごろから紀元前11世紀ごろに使われていたもので、世界遺産に登録されています。その発見には、金石学者の王懿栄が漢方薬として購入した骨の欠片に古文字を発見し、彼の食客だった劉鶚がその出所を追って見つけたというエピソードもついています。ともかくも、殷は黄河流域に興って神権政治を行い、ついには中原を支配するに至り、中国王朝の歴史が幕を開けたのです。
殷王朝は、紀元前11世紀ごろ(紀元前12世紀とする説もある)に殷周革命によって潰えます。殷に代わって中原の治者となった周(紀元前11世紀前後~紀元前771年~紀元前256年)はその時期によって西周と東周に分けられます。前半の西周は封建制によって初期には栄えましたが、すぐに諸侯が力をつけはじめて衰退していきました。そして紀元前771年に黄河文明上流の犬戎と侯が手を組んだことにより首都を占領され、貴族が洛邑(現在の洛陽)に遷都し東周の時代へと入ります。
春秋戦国時代
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西周が東周に移ったことにより、周がその権力を完全に失い、諸侯が九州(天下)の統一を目指して争い始めました。この時代を春秋時代といいます。春秋時代には中原に様々な勢力が跋扈し、目まぐるしく興亡しました。この中でも有力な諸侯は「覇者」という称号で呼ばれ、特に有名な5人を春秋の五覇と呼びます。しかし、実際には春秋の五覇の定義にも様々な説があり、誰がその5人であるのか確定していません。その中でもほとんど確実に五覇に含まれるのが、斉の桓公と晋の文公です。彼ら2人に共通するのは、会盟を開いて諸侯をまとめあげたという点です。現在も斉の首都であった臨淄(山東省淄博)には臨淄故城の跡が残っている他、管仲記念館という桓公の宰相だった管仲についての博物館があり、彼のエピソードを再現して展示してあります。その後、紀元前403年に大国・晋が韓・魏・趙の三国に分裂して以降は戦国時代に突入します(時代の境目については諸説あり)。

中国の戦国時代は、日本の戦国時代の名の由来であり、これらの間には共通点があります。最大の共通点は下剋上が盛んにおこなわれたという点で、それまでの身分秩序が崩壊し、国政を握る氏族が大幅に変わりました。また、お互いの融和がある程度尊重されていた春秋時代に比べて、戦国時代は各国が富国強兵を推進して積極的に他国に侵攻したという違いがあります。戦国時代の中でも「戦国の七雄」と呼ばれる韓・魏・趙・斉・燕・楚・秦の7国は特に有名で、互いに天下の統一を夢見て争いました。しかし、斉が凋落するとこれら7国の中でも最西にあった秦が次第に力を付け、紀元前221年に秦王である嬴政が中国統一を成し遂げて始皇帝と名乗りました。ここに中華帝国と中国統一王朝の歴史が始まったのです。戦国の七雄それぞれの中心都市は今でも保存されており、めぐることができます。
| 「 | 子曰ク:「學ビテ而時二習フ㆑之ヲ、不㆓亦タ説バシカラ㆒乎?有リ㆑朋自リ㆓遠方㆒來タル、不㆓亦タ樂シカラ㆒乎?人不シテ㆑知ラ而不㆑慍ミ、不㆓亦タ君子ナラ㆒乎?」 | 」 |
| —『論語』(ウィキソース)「學而第一」(2020年7月27日00時04分の第161089版) | ||

春秋戦国時代は、様々な諸侯の興亡の中で様々なエピソードが生まれ、文化的にも非常に重要な時代でした。「春秋」と「戦国」という名はそれぞれ孔子の『春秋』と劉向の『戦国策』に由来しています。孔子をはじめとする諸子百家と呼ばれる思想家たちが登場したのは、富国強兵によって生き残り拡大するために彼らが必要であった、まさにこの時代のことです。彼らの中でも特に有名なのは、儒家として最も知られている孔子や、墨家の墨子、法家の商鞅や韓非、そしてしばしば老荘思想として語られる老子と荘子らです。彼らの言葉は様々な形で中国文化、さらには周辺文化に強く受け継がれており、日本語にも諸子百家の引用に由来する言葉がいくつもあります。性善説や性悪説、無為自然などの概念が説かれたのもまたこの時代であり、今後展開される中国哲学の根幹といっても過言ではありません。山東省の曲阜には孔子にまつわる三孔(孔廟・孔林・孔府)と呼ばれる建造物があり、世界遺産に指定されています。また、老荘思想を基にして形成された道教には四大道教名山や五岳などの聖地があり、これらを巡る旅も面白いはずです。さらに、この時代には既に初期の漢詩が形成されており、北の『詩経』と南の『楚辞』は有名です。とはいえ、漢詩の形式が完成されるには、紀元後8世紀まであと1000年弱待たなくてはなりません。
この時代のもう1つの産物として忘れてはならないのが万里の長城です。万里の長城が現在みられるように巨大化したのは中国統一以後ですが、その基礎が築かれたのは春秋戦国時代、戦国の七雄が国境を警戒してのことでした。また、この時代には鉄製農具と牛耕によって農業生産性が向上し、これによって戦国の七雄それぞれが青銅貨幣を製造するなど、貨幣経済が始まりました。
秦
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「戦国の七雄」の分立状態を平定した秦は、中国を統一した初の国家となり、その王である嬴政が「王」を超える称号としてはじめて「皇帝」を名乗りました。彼こそが世にいう始皇帝であり、ここに2000年に亘る中華帝国の歴史が始まったのです。秦ははじめての統一帝国であるため、この後の帝国に受け継がれるさまざまな要素を作り上げました。例えば、度量衡や貨幣、文字を統一し、郡県制により中央政府による整えられた支配が行われたことが挙げられます。他にも、始皇帝は泰山にて天地に王の即位を告げる「封禅の儀」を行ったと確認できるはじめの人物であり、この後の皇帝にもこの風習が受け継がれました。こうした背景から泰山は中国五大聖山に数えられ、中国で初めての世界遺産にもなりました。
また、始皇帝は北方の遊牧民族である匈奴への対策として、万里の長城を大規模に再構築しました。この後にも幾度となく修築・拡張・破壊が行われるものの、長大な万里の長城はこの時代に築き上げられたといえます。また、現在の広東省にあたる地域への出征を行うなど、それまで黄河流域に限っていた勢力範囲の南下、すなわち長江流域への進出を行いました。結果として領土は部分的に現在のベトナム北部まで拡大しました。
一方で、焚書坑儒と呼ばれる思想弾圧を行い、儒教を激しく抑圧したことで、全国的に不平を買いました。万里の長城や他の大規模建築、そして度重なる戦乱もまた国民の負担を増幅しました。さらに、始皇帝は不老不死に興味を持ち、国外を探索するなどそのこだわりは並々ならぬものでしたが、結果として毒物である水銀を服用するなど、自身の寿命を縮める結果を招きました。彼の不老不死を求める思想は、そのまま道教に受け継がれており、秦朝及び始皇帝と当宗教の間には非常に強い文脈があります。
| 「 |
力拔山兮氣蓋世 時不利兮騅不逝 力、山を抜き、気、世を蓋ふ。時、利あらずして、騅逝かず。 |
」 |
| —中国語版ウィキソース「垓下歌 (項羽)」(2025年4月27日07時36分の第2554882版) | ||

こういった経緯で、始皇帝が死亡し後継の文官・宦官が暴政を繰り広げると、すぐに陳勝・呉広の乱と呼ばれる農民反乱がおき、中国は再び戦乱に呑まれます。この反乱を起こした陳勝、呉広らは戦乱の中で死に征きますが、反乱はすでに全国へ飛び火しており、その中でも名を揚げた漢の劉邦と楚の項羽の両君による楚漢戦争がはじまります。2026年現在世界遺産に登録され、中国の主要観光地の1つになっている兵馬俑は、始皇帝が自身の墓の護衛として作らせたもので、地下にあるため1974年まで知られていませんでした。
項羽と劉邦に纏わるエピソードは非常に多く、日本でも様々な本で紹介されています。はじめは項羽が有利でしたが、人望が厚い劉邦の下に人材が集い、次第に劉邦の勢力が押していきました。途中、劉邦は紀元前206年に秦の郁であった咸陽を占領し、初めての中華帝国である秦朝はわずか15年で滅んでしまいます。その4年後、現在の安徽省宿州市で行われた垓下の戦いにて項羽は敗走し、ほどなくして殺害されると、楚の勢力は潰走し、劉邦が率いる漢が再び中国を統一しました。垓下の戦いは項羽と劉邦の話の中でも特に有名で、楚を四方に囲む漢の陣から楚の歌が聴こえるという「四面楚歌」の故事や、項羽が読んだ垓下の歌(上記引用)などは国外でも知られており、悲哀とともに今なお語られています。現在、古戦場は田園風景の中にあり、「垓下遺址」と書かれた石碑が立てられています。